施設の概要

旧堀切邸 表門

 旧堀切邸は、江戸時代から続いていた豪農・豪商の旧家を補修、復原、一部新築により整備し、飯坂温泉の観光交流拠点として平成22年5月に開館しました。
 敷地面積は、約4,000㎡(約1,230坪)あり、明治13年以前には現在の約2倍以上の面積があったと伝えられています。
 当時からあった建物は、「表門」「主屋」「十間蔵」「井戸小屋」で、ほかの建物は新築となっています。
 「主屋」は、1880(明治13)年の火災によって焼けてしまい、翌1881(明治14)年に再建された近代和風住宅です。建坪は約84坪あり、主な部屋 数は9部屋となっています。被災後の応急的な普請であったにも関わらず、屋根は天然石(宮城県石巻市産)のスレート葺きであり、天井も高く、座敷飾りなどの造作も入念で、天窓採光などにも工夫のあとがうかがえます。

堀切家の誕生

 1578(天正6)年に梅山太郎左衛門菅原治善が若狭国(現在の福井県)から当時の上飯坂村に移住し、名を「若狭」と改め、「川跡田畑4町歩(約39,700平方メートル)あまりを開作」し、農業・養蚕に力を入れていきました。
 また、村を流れる赤川がたびたび氾濫し被害がでるため、「堀を切って」赤川の流れを変え、埋め立てた場所を田圃や宅地にしたことから、ここの地名を「堀切」とし、治善のことを「堀切」と呼ぶようになりました。

近代国家に尽くした堀切家

 堀切家では、14代良平の長男で我が国の近代政治史にその名を残す堀切善兵衛(衆議院議長、駐イタリア大使)、そして関東大震災後の東京復興に尽力した次弟・善次郎(東京市長、内務大臣)、福島経済界に大きな役割を果たした末弟・久五郎(衆議院議員)を輩出しました。

堀切良平

顔写真 14代当主である良平は、1883(明治16)年に上飯坂村ほか5村の任命戸長となります。また、1888(明治21)年には飯坂町湯町から出火した173戸を焼く大火の後、自らの私財を投じて、焼け跡の整備に奔走しました。
1889(明治22)年に戸長制度が廃止となり、市制・町村制が導入されると、上飯坂村は飯坂町となります。良平は町会議員、さらに郡会議員、県会議員となり、地元飯坂町の発展に大きく寄与する一方、民権運動にも加わり、河野広中とともに活動しました。


堀切善兵衛

肖像画 堀切善兵衛 14 代良平の長男、15代当主。慶応義塾大卒後、ハーバード、ケンブリッジ大(財政学:A・マーシャルに師事)に留学。1912(明治45)年には30 歳(当時最年少)で衆議院議員に初当選し、以後連続10期国政で活躍(立憲政友会所属)しました。高橋是清(総理兼大蔵大臣)の秘書官、衆議院議長、大蔵 政務次官(犬養毅内閣)を歴任。1940(昭和15)年に松岡洋右外相により駐イタリア大使に起用され、1942(昭和17)年まで務めました。
勲一等瑞宝章叙勲。


堀切善次郎

肖像画 堀切善次郎 14 代良平の次男、善兵衛の弟。東京帝国大法学科を首席で卒業後、内務省入省。関東大震災直後の1923(大正12)年には都市計画局長、1925(大 正14)年神奈川県知事、翌年には復興局長として関東大震災後の帝都復興に尽力、1929(昭和4)年東京市長に就任しました。
東京市長退任後は、拓務次官、法制局長官、資源局長官、内閣書記官長を歴任。1933(昭和8)年貴族院議員、翌年の東郷平八郎の国葬にあたっては葬儀委員長に任じられました。
戦後には、1945(昭和20)年幣原喜重郎内閣で内務大臣に就任し、戦後処理や、女性参政権・被選挙権を認める選挙法改正などに手腕を発揮しました。
勲一等旭日大綬章叙勲。